「谷口与鹿との想い出」 第15話 日光東照宮の「三猿の教え」 語り部・柳沢雅彦
第15話 日光東照宮の「三猿の教え」


どうしても愛弟子に掛け軸を渡したいのか、与鹿は肝に銘じておく べき心得をいくつも男に説きました。
「いざ競売が始まったら、息をひそめて推移をじっと見守れ」
「買いが買いを呼ぶ。入札する瞬間まで、無知と無関心を装え」
「むやみに見物人を煽るな。いたずら心が致命傷になる」
「一番怖いのは火事場の馬鹿力だ。衝動買いの欲望に火を点けるな」
「落札できるまで、誰にも競売の話をしてはならない」
男は与鹿の言葉に、ひとつひとつ大きく頷きました。
与鹿が男に示した心得は日光東照宮の「三猿の教え」そのものでし た。「見ざる」「言わざる」「聞かざる」⋯⋯江戸時代初期に活躍 した、あの伝説の彫り師左甚五郎の作と伝えられるレリーフです。
うまく落札するための心得の説明がひと通り終わるのを待って、男 は、ずっと前から気になっていた質問をしました。
「差し出がましいことを申しますが、競売で師匠の作品の価格が上 昇しなくても本当によろしいのでしょうか?」
「かまわん。落札価格なんて、どうだっていい。みんな高山祭の屋 台を彫った谷口与鹿の名前くらいは知っている。だがオレの描いた 掛け軸のことまでは知らない。そんな物この世にあるはずない、ど うせ偽物だろう⋯⋯と決めつけてかかる。鵜の目鷹の目でオレの掛 け軸の出品を待ちかまえていた者にしか、この掛け軸は見えない」
まるで宙を見つめるように、与鹿は淡々と喋りました。
師匠の鋭い分析と深い洞察は、弟子の心の琴線に触れました。 「この掛け軸の落札価格に関係なく、オレが高山祭の天才彫り師だ ったという事実と高い評価は未来永劫(えいごう)に続く」とも。
男は「ごもっともです」と相槌を打ちました。
与鹿は「オレの掛け軸の将来は、真の値打ちを知っている愛弟子の お前に託したい。頼むぞ!」と男に檄を飛ばしました。
「かしこまりました。とりあえず安く落札することを当面の目標に します。しかし吊り上げ競争に巻き込まれたら、致し方ありません。 こちらも牙を剥き出しにして、必ず掛け軸を奪還いたします」
「その調子だ。お前には、いつもオレがついている。お前が躊躇し ていたら、あれこれ耳元で指図する。ぼーっとしていたら怒鳴るか もしれない。今から覚悟しておけ」
与鹿は、男の闘争心を鼓舞しました。
「どうやって流失したのかは知る由もないが、これから競売にかけ られる掛け軸は紛れもなくオレの分身ともいうべき大切な作品だ。 しっかりと落札の行方を見届けたい」と目を潤ませました。
師匠の無念を晴らそうと、最後の愛弟子は胸に誓いました。


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