「谷口与鹿との想い出」 第1話 天才彫り師の神技に憧れた小学生 語り部・柳沢雅彦
第1話 天才彫り師の神技に憧れた小学生


まだ男が小学生だった頃、大阪万博が開かれました。万博の会場と 飛騨の子どもたちを結ぶNHKのテレビ番組があり、子どもたちが 一生懸命に版画に取り組む様子が全国に生中継されました。テレビ の中でインタビューを受けるというのは当時の子どもにとっては夢 のような話です。男は有頂天になり、鼻高々でした。
ところが、それよりも男にとって衝撃的だったのは高山祭で谷口与 鹿の彫刻に遭遇したことでした。龍の彫刻は瞬く間に幼い天狗の鼻 をへし折りました。同じようにノミで彫るのに版画と彫刻は天と地 ほども立体感が違います。かつて名工たちが腕を競い合った屋台の 彫刻はどれも素晴らしいのですがさすがに与鹿の作品は別格です じっと見つめていると、登場する人間や動物たちの息遣いや鼓動ま でも聞こえてきました。
天才彫り師の神技に男は完璧に打ちのめされ、ため息を漏らしまし た。「江戸時代にタイムスリップできれば、家の前で土下座して弟 子にしてもらうのに⋯⋯
気のせいかもしれませんが、度肝を抜かれて屋台を後にするとき、 彫刻の龍がニヤッと微笑んだような、おぼろげな記憶があります。 それから数日後のある晩のこと、男は高山祭の夢を見ました。恵比 須台(えびすたい)に取り付けられた谷口与鹿の龍の彫刻に見とれ ていると、てっきり彫刻だと思っていた龍が屋台から浮き上がり、 四つ足の生えた大蛇のように姿を変えて男に話しかけました。
「お前が望むなら、オレの生みの親に会わせてやってもいいぞ」
臆病な小学生は、龍に騙されて山の中に運ばれ、親子の龍に八つ裂 きにされてしまう悲しい結末を思い浮かべました。
しかし憧れの与鹿に会って弟子入りをお願いしたいという明るい希 望は、龍の胃袋に収まってしまう真っ暗な絶望に勝りました。
「本当に谷口与鹿さんに会わせていただけるんですか?」
こくりと龍は頷き「オレの背中に乗れ!」と。
ゴツゴツした鱗の背中にまたがると「吹き飛ばされないように、し っかりオレの身体にしがみつけ!」と男に命じました。
ふわっと龍は大空に舞い上がり、いきなり春の嵐の中に突入しまし た。一瞬にして男の全身は桜吹雪に包まれました。
「着いたぞ」まもなく龍は到着を告げ、男を背中から降ろし、大空 に姿を消しました。
きょろきょろ男が周囲を見回すと、どうやら現在の本陣平野屋花兆 庵あたりのように思えました。
「ということは、ここは中橋に近い本町1丁目かな?」
ぽつりと男は漏らしました。
「オレの弟子になりたいというのは、お前か?」
目の前にある彫房から出てきたのは谷口与鹿その人でした。真っ昼 間なのに、酒の匂いを香水のように身にまとっていました。
とっさに男はひざまずき、顔を地面に擦りつけるようにして「どう か僕を弟子にしてください」と拝みました。
まだ12才の男の子が、いきなり土下座したのに与鹿は驚き、いた く感心した様子でした。
「モノになるかどうかはわからんが、そこまでして頼むのなら無下 にはできん。オレが仕事している背中を眺めながら、好きなだけ技 を盗んでいいぞ」と快く弟子入りを認め「谷口与鹿の前に谷口与鹿 なし。谷口与鹿のあとに谷口与鹿なし」と口ずさみました。
時空を飛び超えて初めて会った与鹿は、太っ腹で細かいことにはこ だわらない大物といった印象でした。自信実力型の天才であること は、ひとめでわかりました。
夢ならば絶対に醒めないでほしいと男は切に願いましたが、それも 空しく、朝が来ると、いつものように男は退屈な現実へと連れ戻さ れました。


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