男はスポーツ写真からダンス写真、そしてネイチャー写真へとジャ
ンルを次第に広げていきましたが、カメラ雑誌では編集長に依頼さ
れてポートレートの写真もたくさん担当しています。
春の高山祭のポートレート撮影では、摩訶不思議な出来事が⋯⋯。
日本カメラMOOKの巻頭グラビアを撮るため、男はモデルのほか
にヘアメイク、スタイリスト、アシスタントを引き連れていました。
谷口与鹿の屋台彫刻のデビュー作ともなった琴高台(きんこうたい)
の前での撮影を順調に終えると、それまで撮影を傍らで静かに見守
っていた屋台組の衣装に身を包んだ人が歩み寄ってきてモデルに真
顔で聞きました。
「どちらのお姫様ですか?」
突飛な質問にモデルは目を丸くして、微笑みながら答えました。
「お姫様ではなく、日本カメラという雑誌のモデルです」
すると屋台組らしき人は「でしたら、ぜひ私とお姫様が並んでい
る写真を雑誌に載せてください」と。いかにも柔らかな物腰です。
撮影スタッフ一同が呆気にとられていると、素早くモデルの右手を
とり「まるで白魚のように美しい」と優しく撫でました。
この時、撮影のアシスタントが男に身を寄せて
「どうしましょう?」と耳元で判断を仰ぎました。
一部始終を眺めていた男は「相手は屋台組の人だろう。ここはモデ
ルのお手並み拝見だ」と答えました。
屋台組らしき人には男とアシスタントとのやり取りなんて耳に入ら
ないのでしょう。愛おしげにモデルの瞳をじっと見つめ
「こんなに綺麗なお姫様とお目にかかれたのは生涯で最高の想い出
です」と感無量の表情を浮かべました。まるで映画かテレビドラマ
のワンシーンのように情感たっぷりです。
「そう言っていただき、とても光栄です。私も素敵な想い出ができ
ました」えくぼが可愛いモデルは爽やかな笑顔を振りまきながら、
お辞儀しました。
このタイミングを逃さず、男がアシスタントに目くばせすると、彼
は「撮影OKでーす! どうもお疲れ様でした」と拍手しました。
すっかりモデルに一目惚れしたのか、屋台組の衣装に身を包んだ人
は、いかにも名残惜しそうでした。
打ち上げの席は、撮影スタッフ一同この話で盛り上がりました。
「あれは本当に屋台組の人だったのでしょうか?」(女性モデル)
「いつの時代の人かと思った」(男性アシスタント)
「あの顔、どこかで見たことあると思わない?」(女性ヘアメイク)
「恵比須台(えびすたい)に取り付けられている手長足長の彫刻み
たいな雰囲気でしたねぇ」(女性スタイリスト)
数えきれないほどたくさんの撮影をしてきましたが、こんな経験を
したのは後にも先にも、この時だけです。
何を隠そう、屋台組の格好をした人が初めて「お姫様」と呼んだ瞬
間に、男は正体を見破りました。しかし天才彫り師の谷口与鹿は男
と目を合わせようとしないので、あえて知らんぷりしました。
与鹿にとって、よほどお気に入りの美女だったのでしょう。それに
しても白昼堂々と公衆の面前にお出ましになったので、天地がひっ
くり返るほど男はたまげました。
後日、与鹿にこの話をすると「あの日はポートレートの撮影だった
のに、お前がスタッフとの事前の打ち合わせで、写真家と飛騨の匠
が競演するイメージで撮りたいと話しているのを立ち聞きしてしま
った。何をするのか気になって、こっそり現場を覗いてみたら、見
たこともない綺麗なお姫様が屋台の前に立っていた。オレの彫刻よ
りもオレ自身が出た方がいいだろうと気を利かせて、うっかり姿を
現してしまった。心配かけて悪かったな」と照れくさそうでした。
与鹿の話を聞いた男は、こみあげる笑いをこらえながら、下界の美
女に見とれて雲の上から落ちた仙人の話を思い出しました。