谷口与鹿との想い出 語り部・柳沢雅彦

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  万難を排して取り戻せ!

 春の高山祭で、谷口与鹿の彫刻を目玉にしている屋台を1億円で 買おうとした中国人の余裕しゃくしゃくの笑顔がトラウマのように 甦りました。いくら師匠の熱烈なファンであっても、こんな場面で は再会したくないというのが偽らざる本音です。  師匠の形見をかけたオークションは、愛弟子の男にとって、ただ のマネーゲームではありません。木刀ではなく真剣を握りしめた戦 い。まさに斬るか斬られるかの悲壮な決闘でした。 「万難を排して、オレの掛け軸を取り戻せ!」  与鹿の言葉がズシンと男の胸に響きました。 この日のために男が用意した100万円の指値が突破されてしまっ ても怯むことは許されません。「百折不撓」の四文字を胸に刻み、 落札するまで背水の陣で突き進むしかないのです。  最悪の事態を想定し苦渋の表情を浮かべる男に向かって与鹿は 「この掛け軸について何も知らない相手なら、むやみに恐れるまで もない。しょせん猫に小判だ」と言い放ち「屋台の彫刻じゃないか ら、オレの名誉も威信も無関係だ。よって落札価格は気にしなくて よし安く落札できたら儲けものだと思えと男を励ましました  負けず嫌いな与鹿らしい言葉ではありましたが、揺れ動く内面の 葛藤を男は敏感に感じ取りました。  男は静かに目をつぶって、これから奇跡が起こることをひたすら 祈りました。すると、いつしか男は現実を忘れてしまい、気がつく と不条理な情景が目の前に広がりました。  オークション終了のカウントダウンが始まるとともに、競い合 う小心者の相手は緊張してトイレに駆け込みました。心を落ち着か せてパソコンの前に戻ってきたときには、とっくにオークションは 終了していましたムンクの「叫びのようなポーズが印象的でした  落札に自信満々のお金持ちが、うっかり長風呂してしまいまし た。すっかり茹であがってしまい、のぼせて赤鬼のような顔をして 浴槽から這い上がりました。ふらつきながらパソコンの前に座りま したが、まだ頭がボーッとしているうちにオークション終了です。  オークションの参加者は自分一人しかいないから落札間違いな しと早合点した慌て者が、うとうと居眠りしてしまいました。根っ からの楽天家なのでしょうか。目が覚めたときは時すでに遅し。大 きな獲物を逃し、さながら鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でした。 ⋯⋯男の頭の中に都合よく展開した奇妙な物語の三人の主人公たち は、いずれも魔が差して落札のチャンスを逃してしまうという筋書 きで、男には無関係のところで話が進んでいきました。  誰が落札したのかは、遅かれ早かれ、いずれ知れるでしょう。禍 根を残さず平穏にオークションを終わらせたいと男は願いました。 もし自業自得なら本人も苦笑いして一件落着です。
続く

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