第12話
谷口与鹿からのご褒美
ある晩、また夢の中で男は谷口与鹿と会いました。
「今度はオレがお前の究極の望みを叶えてやろうか
⋯⋯」
男の瞳を覗き込みながら、ゆっくりと与鹿は語りはじめました。
師匠に叶えてほしい究極の望みって何だっけ? インターネット
写真展の開催によって師弟が時空を超えて同じ舞台で競演するとい
う夢は叶ったし、それ以外どんな望みがあったか思い出せません。
落ち着かない様子の男に、与鹿は「お前に写真展のご褒美をやろ
うと言ってるんだよ」と水を向けました。
「えっ
!?」
まさかとは思いながらも、勇気を奮って「もしかして師匠の形見を
何かいただけるんでしょうか?」
「そうだ。お前が欲しがっていたアレをやろうと言ってるんだ」
アレとは酒豪の与鹿が二十九才で高山を去り、清酒の発祥地であ
る伊丹に移り住んでから絵筆をふるった唯一の鳥獣をモチーフにし
た貴重な掛け軸でした。
当時の伊丹には風流な文化活動に理解を示す造り酒屋の旦那衆を
頼って日本全国各地から文人や墨客らが集いました。
井原西鶴、近松門左衛門、頼山陽など日本史の教科書にも登場す
る錚々たる顔ぶれです。その中に高山祭の屋台彫刻で名をはせた谷
口与鹿の姿もありました。
たびたび男が夢の中で江戸時代に迷い込み、与鹿から写真術の指
南を受けていた頃、伊丹の造り酒屋の床の間に師匠が描いた鶉の掛
け軸が飾ってありました。鶉の安らかな表情は一瞬にして男の心を
奪いました。再び時空を飛び越えて現代に舞い戻り、飛騨高山の原
風景を撮影する際には珠玉のヒントになりました。
「鳥は繊細な神経の持ち主だ。どんなに陽気に囀っている時も、絶
えず用心深く周囲の様子を窺っている
。良い写真を撮りたかったら
、
お前が心の窓を開けよ」
与鹿は盃を口に運びながら
、床の間の掛け軸に視線を注ぎました
。
「オレの鶉の絵を真似ていいぞ」という寛容と「オレの鶉の絵を真
似できるもんなら真似てみろ」という挑発。
弟子に真似されたからといって怒るわけではなく、弟子に真似さ
れたことを誇りに思う大らかさ
⋯⋯それが昔かたぎの師弟愛でした
。
二人で一緒に眺めた想い出の掛け軸を頂戴できると聞き、こみあ
げてきた懐かしさと感激のあまり「ありがとうございます」と男は
畳に顔を伏せました。数秒後に頭を上げ「ところで師匠
⋯⋯どうや
って私は掛け軸を受け取ればよろしいのでしょうか?」
男の問いかけに、与鹿はニヤニヤしているばかりです。しびれを
切らせて「まさか旧家のお屋敷に忍び込んで盗んでこい
⋯⋯なんて
オチじゃありませんよね?」と念を押しました。
すると与鹿は押し黙ったまま、ぐっと盃の酒を呑み干し
「お前の師匠は天下の大泥棒じゃないぞ」と豪快に笑いました。
© Masahiko Yanagisawa / SPORTS CREATE