第10話
実際に写真を撮影したのは
誰だったのか?
谷口与鹿の屋台彫刻に初めて出会ってから五十年、写真家として
も三十年の歳月が流れました。写真家としての経歴を眺めるだけで
は、男の写真の本質は見えません。しかし、ふるさと飛騨高山写真
展を注意深くご覧になると、それが垣間見えるシーンがあります。
たと
えばカワセミのオスとメスが川面で激しく乱舞するシーン。
これは喧嘩でなくお互いの愛を確かめ合う神聖な恋愛バトルです。
なぜ、こんな決定的な瞬間が撮影できたのでしょうか。
男がシャッターで時の流れを刻むと、まる
でピアニストの演奏の
ように歯切れの良い決定的瞬間が紡ぎ出されました。繊細な
調べか
ら壮大な響きまで緩急自在です。
男は自分の写真を褒められるたびに「どうして、こんな写真が撮
れたのか全然わかりません」と首をかしげました。決して自慢する
ことなく、まるで他人事のような口ぶりです。
それもそのはず。カワセミの神聖な恋愛バトルだけでなく、男が
写真家として撮りだめてきた作品には、
すべて与鹿の息がかかって
いました。シャッターを押す指先ばかりではなく、体の芯までも与
鹿が操る「からくり人形」のようでした。
男がカメラで描いたのは、孤高の表現者、谷口与鹿の残像だった
のです。飛騨の匠の頂点に君臨する天才肌のまばゆい自然体。見る
ものの想像力をかきたてる余情の美学
⋯⋯高山祭の屋台彫刻に身を
潜め、しぶとく現代まで生き続け
ている与鹿の魂が、男の肉体に宿
って巧みに写真を描いてみせたのです。
男の写真には、数奇な運命にもてあそばれながらも栄光を極めた
与鹿の情熱と波乱に満ちた人生が
映っていました。
写真家の男を陰で温かく見守り
、あるときは全力で支えながらも、
自分は人前に姿を見せず、いつも黒子役に徹する与鹿がいました。
はたして自分で撮影しているのか与鹿の美意識を表現するために
代わりにシャッターを押しているのか、写真家本人さえもわからな
いほど二人は一心同体でした。
飛騨の地酒を呑んで眠りにつくと、たちまち男の夢の中に与鹿が
出てきて、写真家として生き抜くための奥義を夜ごと授けてくれま
した。目が覚めているときよりも眠っているときの方が、はるかに
学んでいるという充実感がありました。
また苦しいときも、悲しいときも、スランプを脱出できず七転八
倒するときも、白昼夢のように与鹿が登場し、平常心を保つための
インスピレーションを絶えず男に吹き込みました。
「未知の領域に挑みつづけるお前は、向かうところ敵なしだ。勝た
なければならない相手は、お前自身の中にいる。昨日のお前を踏み
越えてゆけ」
それが与鹿の口ぐせでした。