谷口与鹿との想い出 語り部・柳沢雅彦

   第9話
  まさかの失明から奇跡のV字回復

 与鹿の言葉に感激して、男はカメラを握る決意をしました。 しかし運命は残酷です。月日が経つのも忘れるほどの無理な撮影が 崇ったのでしょうか。男が帰郷して本格的に飛騨高山の撮影を始め て間もない頃、利き目の右眼が見えなくなり悲嘆に暮れます。  男は奈落の底でもがきました。ずっと尊敬してきた師匠への恩返 しを目前にして無念の撤退か⋯⋯あふれる涙が止まりません。  幼い頃から登り慣れている城山で、男は紅葉真っ盛りの山頂から の下山途中に足を滑らせ尾骶骨を強く打ってうずくまっていると ころをトレッキングしていた妙齢の女性に発見されました。その人 から貸してもらったストック(トレッキングポール)で足元の遠近 感を慎重に探りながら辛うじて無事に帰宅することができました。  名も告げず照蓮寺の前から立ち去った一期一会の親切な人との会 話で男が覚えているのは、卒倒するほど蛇が嫌いだという話だけで す。いつも身を護るために用心棒を携えているのだとか⋯⋯もしか したら彼女は城山に棲む野鳥の化身だったのかもしれません。  もし善意の人よりも先にクマに出会っていたら、男は今頃どうな っていたでしょうか。童話の世界だったらクマに頼んで背中に乗せ てもらうこともできますが、現実はそれほど甘くないでしょう。  外出しなければ大丈夫だろうとタカをくくっていたら、今度は自 宅の階段を踏み外しました。片目しか見えないと、撮影どころか日 常生活にも支障が出ることに男は気づきました。  ましてや写真家にとって失明は死刑宣告も同然です。男は夢の中 でポロポロ涙を流し、与鹿に窮状を訴えました。  黙って聞いていた与鹿は眉間にしわを寄せ「まだオレとお前の約 束は完結していない。PX3金メダリストのお前にオレの屋台彫刻 を撮ってもらわないことには、何のために今まで二人三脚でやって きたのかわからないぞ」  さらに与鹿は「どこの世界にも天才はいる。眼科の名医に手術し てもらえば再び光を取り戻せるはずだ。問題は、どうやって名医を 探し出し、難しい手術を引き受けてもらうかだ」とも言いました。  まだ見える左眼を頼りに、男は必死で情報を集めました。そして 細川護熙元総理の主治医であり、世界じゅうからVIPが訪れる東 京・六本木の深作眼科を探しあて、深作秀春院長みずからに執刀を お願いする手紙をしたためました。  手術は成功し、男の右眼の視力は奇跡のV字回復をとげました。 逆境においても心を折らず再生へと舵を切れたのは、他ならぬ彫刻 の神様のおかげです。男は冷静沈着な与鹿の助言に従い、絶望の淵 から不死鳥のようによみがえりました。  壮絶な闘病生活の末に仕上がった屋台彫刻の写真は、与鹿が言う ように他の人たちが撮影したものとは明らかに雰囲気が異なってい ました。屋台彫刻に人生をかけた与鹿の執念と情念までも渦巻いて いたのです。 「ようやくオレの彫刻の真骨頂を描いた写真ができた。オレを慕う お前を愛弟子として可愛がり、写真家にしてやった甲斐があった。 次は、あらゆる手段を駆使して一人でも多くの人にオレの彫刻を見 てもらえ。のんびりしていた江戸時代とは違い、今は世の中が激し く変化している。新しい時代には新しい見せ方があるはずだ」 男は師匠の言葉にうなずき「全力を尽くします」と誓いました。  江戸時代の天才彫り師、谷口与鹿が心血を注いだ高山祭の屋台彫 刻と現代に生きる弟子の写真家が撮りだめた飛騨高山の原風景を並 べてインターネット上で競演する形にしました。  写真展のタイトルは「PX3金メダリスト柳沢雅彦が描く高山祭 の天才彫り師、谷口与鹿の世界」  PX3の金メダリストという称号は、男が師匠の谷口与鹿からプ レゼントされた生涯で最高の宝物です。ここには師匠への最大の敬 意と深い感謝の気持ちが込められています。
続く

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