楽して稼げるバイトですか。困りましたね、こういう漠然とした質問は…。
「毎日、こまめにバイト情報誌をチェックして、いいところがあったら、すぐに応募してみましょう」などと無責任に受け流しておけばいいのでしょうか。
真剣に答えようとすると、妙に力こぶが入り過ぎて「のれんに腕押し」になってしまいます。
「少年よ、大志を抱け!」という言葉はあまりに有名だけど、キミみたいにピューリッツアー賞を目指すという若者は初めてだ。なにせ世界じゅうの報道カメラマンの憧れの的だからね。
私の場合、プロカメラマンになるまで中日新聞の記者をやっていました。写真部員ではなく、編集記者です。
ですから写真についてはシロウト同然でした。では、どうやって写真を勉強したかというと、自分で本を読み、実際に写してみて、体で覚えていきました。
自分の作品を新聞紙面で発表することによって、読者の反応をリアルタイムにストレートで知ることができました。
調子に乗って、あらゆるテクニックを試しました。
編集記者にとっては、本来ならば記事が「主」で写真は「従」なのですが、私は記事と写真をまったく対等に扱い「二刀流」として結実させたのです。
次第に、記事よりも写真のほうが、はるかに面白くなって、新聞社に在籍したまま写真をやるか、あるいは独立してプロカメラマンになるかの選択を迫られて、フリー宣言したにすぎません。
新聞社に在籍していたときも、写真についてわからないことがあれば、知り合いの写真部員に電話してわからないことを懇切丁寧に教えてもらいましたし、おかげさまで新聞社内の写真賞というのも何度もいただきました。
私にとって新聞社は給料までもらえる最高の写真学校でした。
しかし私は「適当なバイト先」として新聞社に在籍していたつもりはありません。
今でもそうですが、私は仕事に命をかける古いタイプの人間なので、入社する際には取材の第一線で命尽きたら、どれほど素晴らしいだろうと思っていました。
当時、憧れていたのは戦場カメラマンの沢田教一(ピューリッツアー賞受賞)でした。
たまたま今は美しいものをレンズで追い続ける立場ですが、大きな事件が起きるたびに思うのです。
「オレは報道の現場で死んでいたほうが良かったのかな」と。アメリカで同時多発テロ事件が起きたとき、私は東京にいましたが、もしニューヨークにいたら真っ先に危険地域に潜入して、おそらく倒壊したビルの下敷きになっていたでしょう。
「写真にかける熱い血」は、被写体が何であれ変わらないものなのです。
もし本気で報道カメラマンを目指すなら、のんきにバイトをしているような暇などないはず。
チャンスは現場にしか落ちていません。「スクープ」それが、すべてです。
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