谷口与鹿との想い出 語り部・柳沢雅彦

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  「得意淡然失意泰然」

 詳細な残り時間の画面さえ見張っていれば、相手の動きは手に取 るようにわかります。ましてや男が知らない間にオークションが終 了してしまうなんて絶対ありえないはずです。  ところがアラームとともに目覚めた男が初めて目にした光景は、 何とも異様でした。すでに残り時間のカウントダウンが止まり、オ ークションの終了を告げていまし。 「何が起こったんだ!?」 こんなに早い終了は想定していなかったので男はうろたえました 「もしかしてミスしたのは競合する相手ではなく、自分では?」 一抹の不安が胸をぎりまし。 だとしたら、与鹿に何とも申し開きできません。一生の不覚です。 背筋が、ぞーっとしました。 「勝った!」突然、与鹿が大きな声で叫びました。 次の瞬間「おめでとうございます! あなたが落札しました」との 知らがパソコンの画面いっぱいに広がりました。 間違いなく、男は掛け軸を落札していました。  オークション終了の瞬間から落札通知が届くまでのタイムラグが 男にとっては、とてつもなく長く感じられたのでした。軍資金を調 達するために苦心した男には、あっけない幕切れでした。  入札の履歴を調べてみると、奇妙奇天烈なことに、なぜか相手は 自動入札の指値で1690円までしか競り合ってきませんでした。 そのため相手の指値+100円が男の落札価格となりました。おそ らく男が入札すると同時にストロボの閃光のような瞬きのうちに勝 負がついたと想像されます。  ありとあらゆる最悪を想定して、師弟はお互い知恵を出し合い、 万全の態勢を整えてきました。  まったく予想もしなかった落札価格に唖然としましたが、あまり にも中途半端な相手の上限指値は何を意味するのか、どんなに考え てみてもわかりません。  ただただ師弟は顔を見合わせながら頭をひかりでし。 競合する相手は、目の前に聳え立つ山を見上げて立ちすくんだので はなく、なぜか平坦な道で躓いてしまっています。ひとつ目の山さ えも越えなかったのには、正直なところ拍子抜けしました。  山に登ろうと最初の一歩を踏み出したら靴の紐が切れてしまった とか、やはり何らかのトラブルに見舞われたのかもしれません。だ としたら誠にお気の毒な話です。 「でかしぞ!」 与鹿は満面の笑みをたたえながら男の肩を幾度か叩きました。 思いもしなかった安値になってしまい、与鹿には大変申し訳ないこ とをしてしまったと、男は頭を垂れて素直に詫びました。  師匠は落札価格には無頓着で、愛弟子に自分の形見を無事に渡せ たことに安堵したようです。  日本で最大手のインターネットのオークションサイトで8日間に わたって催された真夏の夜の宴は、師弟にとって願ってもない成功 裏に幕を閉じました。  落札した数日後には、掛け軸が男の手元に届きました。酒豪の与 鹿が江戸時代に屋台組の旦那衆から接待されていたという馴染の料 亭「洲さき」に赴き、床の間に掛け軸を飾ってもらいました。  鶉の絵には和歌が添えられ、与鹿の雅号も記されていました。与 鹿は伊丹の地では「元機さま」と呼ばれていたのです。文人として も活躍していた当時の面影が男のまぶたに甦りました。  男が夢の中で江戸時代にタイムスリップして与鹿と一緒に眺めて いた掛け軸は長い歳月のうちにどこかに消え失せてしまいましたが いま再び二人の目の前に戻ってきたのです。与鹿と男は感極まって 涙ぐみました。  祝いの席に運ばれてきたのは茶の湯の心をふまえた料理「宗和流 本膳崩(そうわりゅうほんぜんくずし)」でした。与鹿は美味しそ うに酒を呑みながら「得意淡然失意泰然」と威厳をこめて語りまし た。  それを聞いた男は「思い通りにいくときも舞い上がってはいけな いし、うまくいかないときも焦らず落ち着いていなさい⋯⋯という 教えですね。よく心に留めておきます」と頷きました。  与鹿は酔いが回ってくると「落札できた今だからこそ言えること だが⋯⋯なかなか楽しい競売だったな」と振り返りました。  男は肩をすくめて「私は苦しいばかりで、ちっとも楽しくありま せんでしたけど⋯⋯師匠は、何が楽しかったですか?」 「世の中には数字にしないと見えないものもある。お前がオレの掛 け軸を100万円と査定してくれたのが一番の収穫だった。埋蔵金 が尽きるまで料亭通いしながら美味い酒が呑めそうだ」 二人の大きな笑い声が夜の料亭に響き渡りました。  形見の掛け軸を最後の愛弟子に託せたばかりか、祝いの酒までご 馳走してもらい、日頃は厳しい師匠も今夜ばかりはご満悦の様子で す。 「粟に鶉の図」
終わり

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