第3話
駆け出し記者のエピソード
大学を卒業するとともに男は新聞記者になりました。直属上司か
ら男の名前が入った名刺を手渡され「これさえあれば、どんなに立
派な人でも会ってくれる
。ちなみに今いちばん会ってみたい人は?」
と聞かれました。
よほど緊張していたのか、うっかり男は「谷口与鹿」と答えてし
まいました。「誰だっけ
⋯⋯その人は?」そう聞かれて「江戸時代
の飛騨高山の天才彫り師です」これには上司も吹き出して「いくら
新聞記者の名刺を差し出しても過去の人にまでは会えないよ」と呆
れ返っていました。
報道という仕事は客観的な事実の積み重ねです。日々刻々と移り
変わる社会情勢に遅れまいと情報収集のアンテナを何本も周囲に張
り巡らし、いつもピリピリしていました。
ゆっくり春と秋の高山祭を見物する余裕すらなく、幼い頃からパ
ワースポットになってきた谷口与鹿の彫刻に会いに行くこともまま
なりません。男のイライラは募るばかりです。
ところが新聞社に入って初めてカメラを手にしたことが、その後
の男の人生を大きく変え、やがては憧れの与鹿に急接近し、絆を深
めていきます。
新聞記者になって一番良かったのは、スピード感を持って仕事を
こなせるようになったことです。1分1秒を争って慌しく仕事する
毎日は、平穏な飛騨高山でノンビリと少年時代を過ごした男の習性
までも様変わりさせました。どんなに素晴らしい記事を書いても、
新聞社で定められている締め切りに間に合わなければ、原稿はボツ
になってしまいます。
新聞紙面に掲載されなければ、写真も記事も読者に見てもらえま
せん。これでは記者失格です。新聞記者にとって最も大切なのは時
間と格闘する「瞬発力」だと男は身をもって知りました。
もうひとつ男が新聞記者になって良かったと思うことがあります
。
普通の人では一生に一度も経験しないような数々の現場に行けたこ
とです。悲惨な事件や事故に巻き込まれて不幸のどん底にいる当事
者や家族の人たちとも、いやおうなく接することになりました。
男は「なんという因果な商売だろう」と嘆き、新聞記者という職
業を選んでしまったことを後悔しました。しかし関係者への取材を
続けていくうちに、記事にはしないという
オフレコの約束で秘めら
れた事実をこっそり打ち明けてくれました。イギリスの詩人バイロ
ンの言葉を借りれば「事実は小説よりも奇なり」です。
昼夜を問わず毎日のように呑んだくれていながらも、ここぞとい
う好機を逃さず、見るものを圧倒する名作を次から次へとお披露目
して大勢の人々を感動させた天才彫り師の谷口与鹿。本音と建て前
の使い分けに心を砕く必要もなく、ぞんぶんに天賦の才能を発揮し
た高山祭の巨匠は、機を見るに敏な稀代の勝負師でもありました。
© Masahiko Yanagisawa / SPORTS CREATE