柳沢雅彦 特別インタビュー

~ 「ふるさと飛騨高山写真展」を振り返る ~
(インタビュー&まとめ/岡本彩香)


Q.ふるさと飛騨高山写真展は、柳沢さんの写真家人生の中で、どんな位置づけでしょうか?
A.当初は私の写真家としてのルーツ探しの旅でした。
できあがった作品群を改めて眺めてみると、私の写真の大黒柱は、幼少の頃から目標にしてきた飛騨の匠たちと清らかな四季折々の自然だったことがよくわかりました。 風景のスナップは、高山出身の写真家ならではのお国自慢にも見えてきます。
私は(恥ずかしながら)自分の年齢を忘れるくらい無頓着なんですが、奇しくも私の還暦の写真展になりました。 人生のひと区切りのタイミングで、写真家という立場からインターネットで全世界に向けて飛騨高山の広告と宣伝をさせていただき、とても光栄です。

Q.今回発表された写真を自己採点すると何点でしょうか?
A.感性のおもむくままに奔放に撮影してきましたので、ひとことで採点不可ですね。 これは学校のテストじゃないから頑張って高得点を目指す必要もありません。
もし私の弟子が、これを提出してきたら、きっと赤ペンでハナマルを描くでしょう。数字なんかでは表現できません。 誰かと競い合うための写真でもないし、社会的な評価を得るための写真でもありません。どれも遊び心の産物です。 写真をご覧になった皆様が「一度、飛騨高山に行ってみたいなー」と感じていただければ、それだけで私は十分に満足です。

Q.柳沢さんの次の目標は?
A.まだ決めていません。新聞記者を辞め、写真家になったあと、休むことなく疾風怒涛のように撮影してきました。 ダンス雑誌の表紙の撮影では、毎号いつ倒れても悔いのないように完全燃焼しました。 そのため前日の夜からダンスの競技が終わるまで血圧が跳ね上がりました。 いつも左の手首には腕時計がわりの血圧計がありました。 困ったことに私の場合、テンションの高さと血圧が完全に正比例します。 だけど血圧が200を越えると、ビビるどころか逆にファイトが湧きました。
「この調子だと、撮影中に命を落とすかも…」
「たとえ私の命とひきかえになってもいいから、世界のダンス史に残る写真を撮りたい」
どんなに健康に気をつけていても、人間いつかは死にます。現世で長生きできなくても作品を通して永遠の命を得たいと心の底から希(ねが)いました。 ここまでくると、もはや情熱ではなく、ただの執念です。 ノミに人生を捧げた飛騨の匠の熱い魂が、写真家の私にとりついたかのように、わき目もふらず無我夢中でシャッターを押し続けました。
「そこまでして撮るか?」と、時には自問しました。 いたって本人は真面目ですが、周囲から見たら、狂気の沙汰ですよね。 よく今まで生き長らえたな…と我ながら感心します。 そして、ここまで私を生かしてくださった神様に感謝の気持ちで一杯です。
ダンス雑誌を卒業し、ふるさとへの恩返しの写真展が一段階しました。 悲願だった大きな仕事が完結し、タフな求道者の私もずいぶん肉体的にも精神的にも疲れました。 というわけで誠に勝手なお願いで大変恐縮ですが、ここらで、ひと休みさせていただきたいと思います。 いつも応援してくださっている皆さん、ごめんなさい。

Q.ところで柳沢さんの初夢はいかがでしたか? もし差し支えなかったら内容について教えてください。
A.うららかな春の日のことでした。私は大きな白鳥にまたがって、ふるさと飛騨高山の上空を舞っていました。 首からカメラをさげ「鳥の目」で懸命に決定的瞬間を窺っていました。
もう世の中はドローンなのに、私は白鳥の背中に乗せてもらって空からの撮影ですよ。ずいぶん暢気というか原始的でしょ。これが本当の私らしさなんです。 「木鶴大明神」の韓志和(かん・しわ=からのしわ)の世界に似ていますね。
あっ、そうそう。内緒ですが、私の初恋の相手は人間ではありませんでした。なぜか童話の中の白鳥だったんです(笑)。
昔も今も、私は優美なものに対する憧憬が、人一倍強いんでしょうか。


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