人生いつ何が起こるかなんて誰にもわかりません。人に恵まれプロ写真家として充実した日々を過ごさせていただいた私にとって、昨年の夏の出来事は衝撃的でした。
8月下旬のある日のこと。高山市内は明け方まで降っていた雨こそやみましたが、空は厚い雲で覆われたままでした。気温は30度を超え蒸し暑かったです。いつものように私は知る人ぞ知るカワセミの聖地を巡礼していました。
「しまった!」
気がつくと私の身体は宙に浮いていました。みずからをカワセミだと勘違いしたわけでは決してないのですが、元旦から大晦日まで毎日のようにフィールドに出かけているため、いかにも我が家の庭のように錯覚していました。落下して意識を失い、どれくらいの時間が経ったのでしょうか。
どこからか猛スピードで駆けつけてきた自転車がキッ、キッ、キッ、キーッと悲鳴を上げながら近くで止まりました。パタパタパタパタと透明感のある風の音が幾度も響きました。誰かが梵天で耳をくすぐりました。いたずらっぽく頭のてっぺんを指先でコンコンと二度か三度つつきました。
ここで私は目覚めました。「なーんだ、夢か・・・」どこも痛くないため、とても現実とは思えません。顔を上げて、きょろきょろ周囲の様子をうかがうと、いつも眺めている光景とはまったく異なりました。すぐ眼の前に川が迫っていました。もしかして本当に転落したのだろうか。
相棒は? 手元のカメラ機材に視線を送ると、握りしめた掌の中で血に染まっていました。まるで負傷した戦場カメラマンみたい。全身から力が抜け、もぬけの殻のようでした。
緊急搬送先の高山赤十字病院では「落ちた時の様子は覚えていますか?」と医師から聞かれました。「私の不注意による転落事故です」と答えました。主な出血は後頭部のほか両手や両腕そして両膝からで、肩や腰を打撲していました。
CTスキャンで脳へのダメージを診断してもらうと、いま異常が見られなくても遅れて症状が出るかもしれないとのこと。頭痛、吐き気、ふらつき、認知症などが出たら、すぐ受診するようにと言われました。
翌日から全身ずきずき痛みはじめました。いったい何が起きたのか。怖いもの見たさで恐る恐る現場を再び訪れました。すると転落した場所から川に向かって一直線にコケがめくれ、草がなぎ倒されていました。無残な爪痕が事故の顛末を静かに物語っていました。
日が昇るとともに視界を白く遮っていた朝霧が晴れていくように、おぼろげだった当日の記憶が少しずつよみがえりました。
前夜から早朝まで降り続いた雨で、道端のコケはたっぷり水分を吸い込んでいました。うっかり踏み、足を滑らせたのが運の尽き。急峻な斜面にゴツンゴツンとぶつかりながら、およそ5メートル落下したようです。
ようやく足が地面に着くと、しなるように後頭部を強く岩場にぶつけました。目の前にキラキラ星が飛びました。ここから先は記憶が抜けています。川に落ちなかったのが不幸中の幸いというか「奇跡」でした。
まさか雨滴でスポンジのようになったコケに足元をすくわれるとは・・・いまいましい出来事を苦々しく思い出しながら、しばらく現場にたたずみました。
宮川のせせらぎ、木の葉が風にそよぐ音、野鳥たちのさえずり・・・優しい自然の音色に包まれているうちに、不快な耳鳴りも収まり、いま生きていることに深く感謝しました。
痛恨の事故から半年近く過ぎましたが依然として、ひとつ大きな「謎」が残っています。あのとき私を眠りから呼び覚ましてくれたのは誰だったのでしょうか。
一部始終を目撃していたのは、対岸にいて時おり私と見つめあっていたカワセミだけです。写真家とモデルは運命共同体。まさかとは思いますが、もしかしたら・・・。
|
|
|